横浜の山手には、ずいぶん昔に知人が住んでいて、
一度山手の駅から山を登って伺った事があった。
さすがに横浜は、遠かった記憶があり、その後も
根岸の先の顧客先に行くときに山手の駅の先の
トンネルをくぐるたびにその当時のことが思い出された。
御宅に伺ったときに、「この山の向こうに行くと、
三渓園という庭園があるんだよ!」と言われたのが、
三渓という言葉と初めて出会った瞬間だった。
それから数十年たって再度「三渓」という言葉と出会ったのは、
近代のお茶に関する本「鈍翁をめぐる9人の数寄者たち」
「近代数寄者の茶の湯」という本の中でだった。
また、NHKの日曜美術館での「大和文華館」の紹介番組で
の出会いもあった。
最近、裏流のお茶の先生について、2カ月に1回という
長~~いインターバルでの初心者講習を受講しており、
お茶の本の乱読を始めたのが、直接の引き金で、美術好き
も手伝って、勢い茶道具の世界の話、近代の数寄者に
つながって行ったという訳である。
もう一つの伏流は、日光の旅先の検討時に高杉晋作に
興味をもったことから、幕末期の長州人たちに焦点があって
きた事も一因となっている。この流れは井上聞多(馨:世外)
山形有朋、益田孝(鈍翁)へとつながりこの流れにも、原三渓
が出てくる訳である。
さてさて、原三渓なる人物は?? それまでは、単に、金持ちが
金にあかして、美術品やらを収集し、大きな庭園をもった邸宅を
つくったもので、三渓園とは、駒込の六義園や山県の旧宅の椿山壮
のようなものであろうという感覚から、積極的に見に行ってみようとは
思っていなかったのが正直なところであった。
原三渓=単なる金持ちの道楽もの、結局は没落した人という
マイナスイメージのみが先行していた。
このイメージを大きく変えたのは、白崎 秀雄の「鈍翁・益田孝 上下巻」
に書かれていた三渓の人となりであった。その確固たる
noblesse obligeの精神の体現と、その結果できあがった三渓園という
オブジェを是非見てみたいという思いが強くなった。
この思いに、偶然が重なり、遠路はるばる横浜本牧まで足をのばし
三渓園へ足を踏み入れたわけである。===> (2)につづく
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