2011年2月28日月曜日

神楽坂ぶらぶら


白銀町公園のそばの路地に梅が咲いていました。
もう直ぐ春です。中央線から見える神田川の土手には
桜が咲きだしています。

理科大 森戸記念館の先の路地を大久保通りに向けて
降りていく細い坂道の途中にも梅のつぼみがありました。
大久保通りに出る直前のビルの前にこんなものが!
路地探索の楽しみですね。
上の路地の1つ神楽坂下側の大きな道は
神楽坂最大の横丁」と言われています
江戸時代末期は松平慶永(春嶽)の
家老本多修理の屋敷脇横町通りだったそうな!
神楽坂から曲がった角にはこんなものがあります。

この道を50mくらい行くと下のお店「ほてや」さんが
上のお店の角をのぞくと・・・そこは芸者新道」と呼ばれる路地です。


2011年2月27日日曜日

2011/2/27 飯田橋外堀通り AM9:30


今日は東京マラソン!
講習会の会場前に先頭集団が到着したのが9:30ごろ
講習会開始が9:30開始。でも大丈夫!!
講師自ら応援中!!

マラソンランナーに先立って、障害を持つ方が通りすぎました。
写真のかたは後ろの方の順位の方ですが、頑張れ!!
不思議と自然に拍手で応援していました。

ついにきました。マラソン先頭集団
アッというまに先頭集団の一段が通り過ぎていきました。
黒人集団の中に日本選手が一人ゼッケン117でも3位の人は
この人ではありませんでした。


2011年2月15日火曜日

原三渓のこと、三渓園のこと (1)

横浜の山手には、ずいぶん昔に知人が住んでいて、
一度山手の駅から山を登って伺った事があった。
さすがに横浜は、遠かった記憶があり、その後も
根岸の先の顧客先に行くときに山手の駅の先の
トンネルをくぐるたびにその当時のことが思い出された。

御宅に伺ったときに、「この山の向こうに行くと、
三渓園という庭園があるんだよ!」と言われたのが、
三渓という言葉と初めて出会った瞬間だった。

それから数十年たって再度「三渓」という言葉と出会ったのは、
近代のお茶に関する本「鈍翁をめぐる9人の数寄者たち」
「近代数寄者の茶の湯」という本の中でだった。
また、NHKの日曜美術館での「大和文華館」の紹介番組で
の出会いもあった。

最近、裏流のお茶の先生について、2カ月に1回という
長~~いインターバルでの初心者講習を受講しており、
お茶の本の乱読を始めたのが、直接の引き金で、美術好き
も手伝って、勢い茶道具の世界の話、近代の数寄者に
つながって行ったという訳である。

もう一つの伏流は、日光の旅先の検討時に高杉晋作に
興味をもったことから、幕末期の長州人たちに焦点があって
きた事も一因となっている。この流れは井上聞多(馨:世外)
山形有朋、益田孝(鈍翁)へとつながりこの流れにも、原三渓
が出てくる訳である。

さてさて、原三渓なる人物は?? それまでは、単に、金持ちが
金にあかして、美術品やらを収集し、大きな庭園をもった邸宅を
つくったもので、三渓園とは、駒込の六義園や山県の旧宅の椿山壮
のようなものであろうという感覚から、積極的に見に行ってみようとは
思っていなかったのが正直なところであった。

原三渓=単なる金持ちの道楽もの、結局は没落した人という
マイナスイメージのみが先行していた。

このイメージを大きく変えたのは、白崎 秀雄の「鈍翁・益田孝 上下巻」
に書かれていた三渓の人となりであった。その確固たる
noblesse obligeの精神の体現と、その結果できあがった三渓園という
オブジェを是非見てみたいという思いが強くなった。

この思いに、偶然が重なり、遠路はるばる横浜本牧まで足をのばし
三渓園へ足を踏み入れたわけである。===> (2)につづく

2011年2月13日日曜日

朝と夕の風景

朝日がのぼった直後に西側をみると、光の塔が立ちます!!

ビルの西側に向いた窓がちょうど太陽光を全反射する方角から見ると
まるで光の塔のように光り輝いています。
太陽がもう少し高く上がると、もう周りが明るくなり
光の塔もだんだん消えてゆきます。


夕方、同じ方角に日が落ちていきます。
光の塔のビルが黒い塔となっています。
また、明日の朝は光の塔となります。





2011年2月3日木曜日

2月 銀座 伊勢由

2月1日に銀座を通ったので伊勢由ウィンドウをパチリ
メインの飾り物変ったかな??もしかして同じかな?
と思って、未公開の1月21日撮影のものをチェックしたら
やはりメインは同じで、サイドが違っていました。
1月のサイドは別途掲載します。




サイド上の段

サイド下の段